博物館
目黒寄生虫館には自然史がギュッと詰まっている
シゼンノ編集部
今回取材したのは、みんな大好き目黒寄生虫館だ。
実はシゼンノ編集部から徒歩5分という立地で、スタッフもプライベートでよく見学させてもらっている博物館である。
メディアではサブカル文脈やデートスポットとして紹介されることも多い博物館だけれど、真の姿はガチの研究機関。
前編では、その成り立ちについて紹介する。
目黒といえば目黒寄生虫館
JR目黒駅から徒歩で約12分。
目黒通りに面した一角に目黒寄生虫館はある。
今でこそ鉄筋コンクリート地上6階地下1階建ての立派な建物だが、1953年にオープンした時点では木造平屋建てだったそうである。
創設者である亀谷了博士が著した『寄生虫館物語』を読むと、様々な人の善意で建物や展示が拡充されていった経緯を知ることができる。
(『寄生虫館物語』は現在、紙の本は絶版となっているが、電子書籍で販売されている。電子書籍では2018年に研究員による注と著者のご令孫による増補が加えられているので、古本よりも圧倒的にオススメだ。)
創設者である亀谷博士は、医学博士であり内科医・小児科医であった。
この肩書からすると、目黒寄生虫館を設立したのも、寄生虫病に困っている人々を救うことを第一の目的としているように思われがちだが(実際そういった面ももちろんある)、純粋に寄生虫全般に対する知的好奇心や探究心によるところも大きかったように思われる。
端的にそれを表すのが、亀谷博士がライフワークとして取り組んでいたフタゴムシという寄生虫(目黒寄生虫館のシンボルマークにもなっている)の研究である。フタゴムシは、2匹の幼虫が合体・癒合(ゆごう)して1匹の成虫となる変わり者だが、そもそも人間に寄生もしなければ害も為さない寄生虫であり、医学とはあまり関係が無いのである。
ご本人としては「医者と寄生虫研究者の二足のわらじ」という意識であったようだ。
まさに、「寄生虫」を専門とする生物学者である。
その亀谷博士が私財を投じて設立したのが目黒寄生虫館なのだが、「医者」が「私財」を投じたというと、なんだか金持ちの道楽のように見えてしまう。が、実態は全く異なる。
設立当時から一貫して、「金持ち」という姿からは程遠い状態で、かなり生活を切り詰めながら、徒手空拳での設立・運営だったようだ。
せっかくなのでフタゴムシの話をしよう
先にも触れたとおり、亀谷博士はフタゴムシ研究をライフワークとし、フタゴムシを扱った学会講演や論文発表だけでも生涯で70本を超えるのだが、いったいフタゴムシの何がそんなに博士を魅了したのか。
きっかけは1965年、知人から譲り受けたコイ(霞ヶ浦産)を解剖した際に偶然フタゴムシを発見したことにあった。
当時フタゴムシ研究は、寄生虫研究界では神様のような存在であった五島清太郎が1891年に発表してから70~80年もの間、誰も手を付けてこなかった研究テーマであり、そこに面白みを見出したのではないかと思われる。
また、淡水魚に寄生し、日本全国どこにでもいるという入手のしやすさも研究を後押ししたことだろう。(入手がしやすいということは、それだけ生活史を調査しやすくなるということなのだ。)
さらには、その生態が非常にユニークであり、おそらくは研究者心を強くくすぐられたということもあったのではないか。
そのユニークな生態の最たるものが、先にも書いたように2匹が合体して1匹の成虫になるため、合体しなければ性成熟できず、また体の構造から精子は必ず相方の卵子と受精することである。雌雄同体であるにもかかわらず自家受精ができず(しないのではなく、できないのだ)、異個体との生殖(他家受精)によって繁殖するという点である。
雌雄同体で他家受精というのは、動物界全体を見渡すとそれほど珍しくはない(ミミズ、カタツムリなどが有名だ)が、自家受精も他家受精もする単生類にあって、他家受精に限られるフタゴムシは珍しい。
亀谷博士は「フタゴムシは、自家受精する生物と他家受精する生物の過渡期に位置する生物であると、僕には思えるのだ。」としている。(『寄生虫館物語』)
しかも、フタゴムシは受精をするために接合したら最後、個体同士が完全に癒着し離れられなくなる(比喩や心理的な意味ではなく、物理的な意味で)。
このようにフタゴムシはいろいろな意味でユニークな生態を持ち、研究対象としての興味が尽きない存在だったのだろう。
もちろん、このフタゴムシの標本も、目黒寄生虫館で見ることができる。
さて、次回は後編後編
現在の目黒寄生虫館の様子や、今後目指す姿についてのお話です。
ぜひお楽しみに!